下田市観光ガイド 『ハリスの小径』 | ||||||||||
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ハリスの小径(下田市) |
★『ハリスの小径』をご覧になるにあたって | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
近代日本が歩いてきた道! 「玉泉寺」から須崎方面へ少し南下した柿崎海岸沿いに、幕末から昭和にかけての歴史が凝縮されたような一本の遊歩道があります。 福浦地区へと抜けるため、「福浦遊歩道」とも言われる約700m続く石畳のその道が、『ハリスの小径』(はりすのこみち)です。 「ペリーロード」や「ハリスの足湯」など、下田の街には、ペリーやハリスの名を冠した施設や場所がいくつかありますが、この「ハリスの小径」もまたその中のひとつとなっています。 「ハリスの小径」は、下田湾を望む、のどかな港町の風景と、そこに沈む夕陽が美しい散歩道なのですが、この道の道端には、開国から戦争へと続く、激動の近代日本が歩いてきた道のりが凝縮されており、初めて歩く者に少なからずある種の感情を抱かせるものとなっています。 軍人ではなかったハリス! もともとこの「ハリスの小径」は、その名が示すとおり、1856年、米国総領事として、オランダ人通訳の「ヒュースケン」と中国人の召使らとともに、「サンジャシント号」にてこの下田に来航した 「タウンゼント・ハリス」にちなんだ遊歩道となっています。 ペリーとともに、幕末の日本史に登場するハリスは、とかく軍人と思われがちですが、1804年アメリカのニューヨーク州に生まれ、教育畑の仕事に就いた後、40歳半ばより、世界を股にかけ本格的に貿易事業へと携わっていきました。 そんな折、1854年に日本とアメリカとの間で調印された「日米和親条約」に基づき設置されることとなった領事の職を望み、自らの意思において初代米国総領事となりました。 後に、「日米修好通商条約」を結んだことでも有名なハリスですが、駐日領事として日本に到るまでの道のりも、その後の幕府との交渉においても、歴史上の華やかな姿とは違って、かなりの苦労を強いられたと言われています。 ハリスの日本での生活については、「米国総領事館」が置かれた「玉泉寺」境内に、「ハリス記念館」があり、貴重な資料や遺品がたくさん残されていますので、是非そちらをご覧になってください。 道端に現れる歴史の爪痕! そんなハリスが、時に故郷ニューヨークを重ね合わせ想いにふけったり、交渉に行き詰った際に気晴らしに利用したり、またヒュースケンと共に歩きながら語りあったとされる道が、米国総領事館から程近かった、この「ハリスの小径」でした。 現在の「ハリスの小径」は、静かに煌く下田湾に浮かぶヨットや、セクシー?な山として知られる「寝姿山」(ねすがたやま)をバックに佇むホテル群などの光景がとても美しく、通りから離れていることもあり、実に静けさ漂う道となっています。 特に「寝姿山」については、その名前の由来となった女性の姿が、最も想像できる場所?となっていますので、是非ともこの道から眺めて頂きたいものです。 そんな「ハリスの小径」は、 1992年から翌年にかけて行われた須崎半島整備事業において、現在のような美しい石畳の道となりました。 ハリスが歩いた頃の道とは、全く趣も異なるわけですが、のどかなこの海・山・空の光景は、訪れる者の心を癒して余りあるものとなっており、時代も町の様子も異なれど、この解放感とやすらぎは同じだったのでは・・・と思います。 しかしながら、そんな心地良い気分で歩いて行くと、やがて道端に次々と現れる歴史の爪痕に、一気に気持ちが変化していきます。 ハリスが歩いた頃には無かったこの爪痕は、知ってしまえば、二度目に訪れた際には、気にせず単純に湾内の景色を楽しむことが出来るのですが、初めて訪れた者には、何かしらの感情を抱かせ、誰しも一度は心を曇らせるのではないでしょうか。 この穴の正体は? 「ハリスの小径」と書かれた石碑を横目に、バス通りを折れ海岸沿いの遊歩道を進んでいくと、まず最初に目につくのが、海に取り残された感じで一直線に並ぶ「石炭積み出し桟橋跡」です。 かつて海軍の石炭積み出しに使われた桟橋の跡で、橋脚の石積みだけが、今もポツンと残されています。 その「石炭積み出し桟橋跡」の先に見えるのが、下田湾に浮かぶ小さな島である「今根島」で、通称「潮神さん」と言われています。 西側の中段に、石の祠があり、そこに潮神様が祀られていることから、このように呼ばれるようになったとされています。 道の反対側に目を移すと、そこには「帆船時代の水汲み場跡」があり、その辺りから歩くにつれ、草木の緑の中に、いくつもの横穴が残されていることに気付きます。 この穴がいったい何なのか? その答えのヒントが、やがて現れてくる石碑の中にあります。 目的も知らされずに掘り続けた少年たち・・・ 穴の答えを求めて歩いて行くと、やがて道端に建てられた「悠久の平和」の石碑に出合います。 この石碑には、終戦まじかにこの地に集められ、ひたすら目的も知らされずに穴を掘り続けた少年たちの足跡が刻まれています。 1945年3月に、「藤沢海軍航空隊」より、若干14歳の特別年少兵200数十名が、はるばるこの地に派遣され、昼夜を徹して壕堀りに従事させられました。 この石碑には直接明記されてはいませんが、この穴は、終戦間近の1945年に、本土決戦を前提にこの下田に配備された、海軍の有翼特殊潜航艇(ゆうよくとくしゅせんこうてい)の「海龍」(かいりゅう)の格納壕で、伊豆半島の海岸沿いには、今もこのような格納壕がいくつも残されています。 海龍は、全長約17mの魚雷2発を先端部に積んだ、海軍の2人乗り小型特殊潜航艇「甲標的甲型」(こうひょうてきこうがた)に、翼を付け改造した有翼潜水艇で、名目上は、敵艦に近づき魚雷にて攻撃をしかけたのち帰還するというものでしたが、実際にはその構造的欠陥や、終戦間近のこの時期に魚雷そのものがすでに不足していたことから、体当たり攻撃を目的とした戻ることのない、いわゆる人間魚雷としての特攻兵器とされていました。 下田湾を挟んで反対側の、 「下田公園」などがある「和歌の浦」周辺にも、このような穴が点在していますが、こちらは同じく上陸を阻止する目的で、ベニヤの小型モーターボートの先端に火薬を搭載して、敵艦目がけて一直線に突っ込む海上の特攻艇「震洋」(しんよう)の格納壕だったとされています。 詳しいことは定かではありませんが、1945年7月1日に、「第57震洋隊」の50隻が和歌の浦に配備され、8月13日に「第6海龍隊」の13隻が、この下田湾に配備されたとの記録が残されています。 8月15日には終戦を迎えたわけですから、実際には、この下田に配備されたこれらの特攻兵器は、使用されずに終わったようです。 そんな下田に残る悲しい歴史の1ページとして、目的も知らされず、ただひたすら穴を掘り続けた少年たちの汗と涙の結晶だけが、今もこの地に残されることとなりました。 この「悠久の平和」の石碑は、14歳にて従軍作業を行った藤沢海軍航空隊の方々が、当時お世話になった地元の方々への感謝と再会を祝すとともに、平和な世の中が続くことを願い、そして自らが少年時代の一時期をこの地で過ごした証として、2001年10月に建てられました。 至誠通天! そんな戦争の爪痕のそばには、鎖国の続く日本において、遠くアメリカへの渡航を夢見て行動へと移した、「吉田松陰」に纏わる石碑が建てられています。 「至誠通天」(しせいつうてん)の文字が、くっきりと浮かび上がるこの石碑は、24歳にして、 近くにある弁天島から、停泊中の「ポーハタン号」に伝馬船を漕ぎ出でた青年の熱き志を称えたものとなっています。 「踏海の企」が失敗に終わった後、吉田松陰は、山口県の萩において叔父より「松下村塾」(しょうかそんじゅく)を受け継ぎ、「高杉晋作」や「木戸孝允」、「伊藤博文」といった幕末の獅子たちに、多大なる影響を与えていきました。 明治維新の影の立役者とも言われる吉田松陰は、その後1859年に、「安政の大獄」にて、29年の生涯を閉じましたが、 一本筋の通った吉田松陰の生き方は、多くの方々に慕われ、特に「至誠通天」を座右の銘とする政治家が多いことでも知られています。 「踏海の企」については、まさにその場所となった弁天島に、「七生説の碑」や「踏海の朝」の像があり、「三島神社」にも吉田松陰の立像が建てられています。 どちらも歩いて行ける距離にありますので、是非立ち寄ってみてください。 今でこそ、伊豆半島の外れに位置し、遠く日本の動静からは取り残された感のある下田の町ですが、ここには近代日本を切り開いた歴史があり、「ハリスの小径」もまた、下田湾を望む、風光明媚な一本道でありながら、幕末から昭和にかけての激動の日本をつなぐ道となっています。 |
- ハリスの小径 - 『旅シュラン』とは?
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