静岡市観光ガイド 『東海道広重美術館』 | ||||||||||
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東海道広重美術館(静岡市 由比) |
★『東海道広重美術館』をご覧になるにあたって | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
16番目の宿場町! 特産物の「桜エビ」や、名物「沖あがり」などで知られる由比の町ですが、古くは1651年に起きた「慶安の変」の「由井正雪」生誕の地として知られ、また、「東海道五十三次」の名場面のひとつである、「由井 薩た峠」の浮世絵でも知られています。 昔は「由井」という字が使われていたこの由比の町は、東海道の53宿中、16番目の宿場町となっており、当時およそ700人の人が住んでいたとされています。 寺院や問屋場、旅籠(はたご)などの建物が、街道沿いに600mほど軒を連ねていたとされていますが、そんな由比の宿場町の中心となっていたのが、大名や幕府の役人などが泊まったとされる「本陣」で、その本陣跡に造られた 「由比本陣公園」内に、この 『東海道広重美術館』があります。 「東海道広重美術館」は、その名が示すとおり、「東海道五十三次」の作者として知られる「歌川広重」をはじめとした、1300点にも及ぶ版画コレクションを有している美術館で、「浮世絵」芸術のすばらしさを今に伝えています。 本陣跡にできた美術館 「東海道広重美術館」は、1989年から5年の歳月をかけて行われた、「江戸文化に触れる!」をテーマとした一連の整備事業の中で、荒廃していた由比本陣跡に造られました。 かつて土蔵が建ち並んでいたとされる場所に造られたこの美術館は、3階建の洋風建築となっており、由比本陣公園内の他の建築物とは、一線を画すものとなっています。 1994年にオープンしたこの「東海道広重美術館」は、約400坪という延床面積を生かした展示内容が魅力となっており、広重をはじめとした「浮世絵」作品のすばらしさを今に伝えるだけでなく、江戸文化を代表する「錦絵」(木版画)がどのように作られていくのかといった流れの説明から、クイズに解答しながら見てまわれる企画展など、月替わりで、趣向が凝らされた展示が行われています。 ぐるっと館内を一周するだけで、とても勉強になる施設となっており、大人も子供も楽しめる内容となっています。 わたしが、初めてこの「東海道広重美術館」を訪れたのは、かれこれ10年以上昔になりますが、オープン当初この美術館の2階で流されていた、広重と浮世絵に関する映像展示に感銘を受け、広重の風景画の世界に、興味を持ったのを今でも覚えています。 天童にある「広重美術館」や、岐阜にある「中山道広重美術館」、建物がとても印象的な「那珂川町馬頭広重美術館」、松本にある「日本浮世絵博物館」、東京の「礫川浮世絵美術館」など、日本全国、広重や浮世絵に関する美術館はたくさんありますが、この「東海道広重美術館」も、そんな美術館と並び、とてもすばらしい施設となっています。 永谷園のお茶漬け わたしが広重の「東海道五十三次」の絵を初めて目にしたのは、若い方はおわかりになられないかと思いますが、永谷園のお茶漬けに付いてきたカードだったかと思います。 何歳くらいだったのかは記憶が定かではありませんが、この時に「広重」という名も覚えたような気がします。 特別集めていた訳でもなく、またそれがどの時代のもので、作品としてどのような価値があるものなのか・・・、など当然わかるべくもなく、ただ昔の絵だという認識くらいのものだったかと思います。 そんな「東海道五十三次」という、53の宿場町が生まれたのは、江戸時代になってからであり、そこには「徳川家康」の、江戸 - 京都間の交流を盛んにし、街道筋の発展を図りたい・・・という想いがありました。 一説には、家康が信仰していた、「東大寺」を本山とする「華厳宗」の経典に登場する、菩薩行の理想者と言われる「善財童子」(ぜんざいどうじ)の、「華厳五十五所絵巻」にもある、53人を訪ね歩き悟りを開いた・・・とされる修行から、この53という数字がとられ、53宿になったとも言われていますが、真意の程はわかりません。 いずれにせよ、この江戸時代の幹線道であった「五街道」のひとつである東海道に、53という数の宿場が設けられたのは事実です。 五十三次は、55枚! 江戸時代に整備されたこの東海道の宿場町を舞台に描かれたこの「東海道五十三次」で、意外に間違いが多いのが、「東海道五十三次」という作品が、55枚からなる作品だということです。 五十三次=53枚と思われがちですが、そういう私もなんとなくそう思っていた一人ですが、53宿 + 出発点である「日本橋」 + 終着点である「京師」(三条大橋)を足した55枚が、「東海道五十三次」となります。 出発点が日本橋であることは、誰でも知っていることであり、よくよく考えれば当たり前のことなのですが、なんとなく漠然と53枚と思っていらしゃる方も多いようです。 ちなみに、現在のJRの東海道線の区間は、京都ではなく、東京 - 神戸間となっています。 実は無かった「東海道五十三次」! そんな「東海道五十三次」ですが、世間一般には「東海道五十三次 」として知られていますが、実は、正確には、「東海道五十三次」という活字表題での作品は存在しません。 歌川広重の代表作として知られるこの「東海道五十三次」は、一般的には、天保年間の1833年に、保永堂の版元であった「竹内孫八」によって刊行された、「東海道五拾参次之内」の絵をさします。 この保永堂版の「東海道五拾参次之内」は、広重にとっても出世作となったもので、1832年に、幕府の行列に加わり、江戸 - 京都間を往復した際に行った写生をもとに、描かれたものだと言われていますが、実際には、旅行をしていないのでは・・・という説もあります。 いずれにせよ、世に出たこの「東海道五拾参次之内」は、空前の旅行ブームを追い風に、大ベストセラー作品となり、その後、広重は、次々と東海道や江戸の名所絵を手がけていくようになりました。 今でこそ芸術作品として重宝されている広重の浮世絵ですが、この「東海道五拾参次之内」をはじめとした作品は、今で言うところの「るるぶ」や「マップル」といった旅行雑誌にあたるようなもので、一般庶民が気軽に手にすることの出来るものでした。 この「東海道五拾参次之内」をはじめとして、広重は東海道を描き続け、競作も含めると、この東海道の53宿を舞台に、実に20作以上の浮世絵を描いたとされています。 有名なものとしては、この保永堂版とよく比較される、1842年刊行の「東海道五十三次之内」(行書)と、1849年刊行の「東海道」(隷書)がありますが、この他にも、「東海道五拾参次」(狂歌入東海道)や、「五十三次」(人物東海道)、「五十三次名所図会」(竪絵東海道)など、東海道の53の宿場町を舞台に描かれた作品は数多く存在します。 同じ宿場町の、版の違いによる広重作品を、すぐにどのような構図か思い描ける方は、かなりの広重通と言えますが、私みたいな凡人には、どれがどれだか、絵中に書かれた表題を見なければ、判別がつきません。 しかしながら、同じ宿場町を舞台に描かれた作品を比較して眺めることは、実に興味深いもので、その年代ごとの風景の違いや、その時広重が何を感じ、何を強調して描こうとしたのか・・・ということを眺めながら感じとることは、一枚の絵を眺めるのとは違って、とても面白いものです。 特に広重は、四季を重んじ、天候の移り変わりなどの自然現象をうまく表現しており、登場人物の服装や表情の違いなどとともに、同じ宿場町の絵を、切り口を変え全く異なった作品へと仕上げています。 そのような比較展示も、全国の美術館で数多く催されていますし、並べて比較した書物もいくつかありますので、機会があったらそういう視点で眺めてみてください。 広重は、5人いる! 「東海道五十三次」に関する意外に知られていない一面とともに、こちらも意外に知られていないのが、「広重」という人物が何人もいる!ということです。 前述の一連の「東海道五十三次」を描いた人物は、初代「広重」と言われる「歌川広重」であり、一般的には、広重=歌川広重 という構図となっているのですが、その後、5代目 広重まで続いたとされています。 3代目 広重までは、初代 広重の流れを汲み、「錦絵」などを手がけていきましたが、4代目以降は、「書家」としての活動が中心となり、2代にわたって、書道塾を経営していたと言われています。 いくつかの作品が残されていますが、評価されたのは2代目までで、それ以降は、残念ながら特筆すべき作品はうまれなかったようです。 ゴッホも模写した広重! そんな広重ですが、初代 広重である「歌川広重」は、1797年、下級武士であった「安藤源衛右門」の子として、八代洲河岸(東京都千代田区)の火消の家に生まれました。 今の東京駅がある「丸の内」付近で生まれた広重は、幼名を「徳太郎」といい、幼い頃から絵心があったとされています。 そんな広重は、15歳で、「歌川豊廣」の門下生となると、17歳で「広重」の雅号を頂き、人物画や花鳥画を描いていきました。 主に風景画を描くようになったのは、30歳を過ぎてからと言われおり、三十半ばにして、前述の「東海道五拾参次之内」を描きブレイクすると、一躍時の人となりました。 広重は、後世、多くの絵師に影響を与えてきたと言われていますが、特に、1856年から死の直前まで制作を続けたとされる、「名所江戸百景」は、日本のみならず、海外の画家にも多大な影響を与えたと言われています。 大胆な構図と、斬新な色使い、そして広重の遠近法は、「ひまわり」の代表作で知られる「ゴッホ」にも影響を与え、特に「亀戸天神社」裏手の梅園を描いた「亀戸梅屋舗」(かめいどうめやしき)と、「大はしあたけの夕立」は、ゴッホが模写したことで知られています。 現代まで、200年近い時を経ても、時代を超えて好まれ続ける歌川広重でしたが、そんな広重も1858年、今でいうところのコレラに侵されこの世を去りました。 「東路に 筆を残して 旅の空 西の御国の 名所を見む」 という辞世の句を残し去って行った広重は、現在、東京都足立区の禅寺である、「東岳寺」に眠っています。 小さな発見の積み重ね・・・ わたしはこの「東海道広重美術館」を訪れるたびに、広重について新しい発見をします。 その時々の企画展から学ぶこともあれば、見ているようで見逃していた点に気付くということもあります。 また、繰り返し広重の作品に触れ、見識を深めていってはじめて理解できる、広重作品の妙味というものもあります。 これらのことは、広重に限ったことではありませんが、印象派をはじめとした洋画にはなかなか馴染めないわたしにとっては、広重作品は身近であり、また自分が東京で育ち、現在東海道に住んでおり、現代の53宿を身近に感じているということも、広重作品に特に感じ入る原動となっているのかもしれません。 そんな「東海道五十三次」のひとつである、現在の由比の町には、残念ながら旧街道筋といくつかの歴史的建造物しか残されていません。 しかしながら、「東海道広重美術館」や、同じく「由比本陣公園」内にある「東海道由比宿交流館」などで、昔の文献や展示資料に触れていくことで、少なからず由比宿の歴史や文化についても学んでいくことはできます。 東京から車を走らせていると、ついつい沼津>富士>清水>静岡と素通りしてしまいそうな由比の町ですが、高速を降りて、この「東海道広重美術館」のある宿場町に、ちょっと寄り道してみませんか。 漁師料理の名物「沖あがり」は、絶品ですよ! |
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