名歌が生まれた地「薩埵峠」
小倉百人一首にも登場し、ご存知の方も多いであろう万葉歌人の山部赤人が詠んだ「田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」の歌の舞台となった場所、それがこの「薩埵峠」の麓だったと言われています。
現在の田子の浦はもう少し東で富士市にありますが、この時代は薩埵峠の麓の海岸辺りだったとされ、諸説あるものの、駿河湾の波打ち際の道を進んでいた山部赤人が、薩埵峠がある薩埵山の崖の背後から突如現れた富士山の美しさに感銘し詠んだ歌とされています。
古くは「磐城山(岩木山)」と言われた標高244mの薩埵山は、「岩木山 ただ越え来ませ いほさきの こぬみの浜に 我たらまたむ」と万葉集にも登場し、鎌倉時代の1185年に、由比の倉沢の浜で網にかかり引き上げられた地蔵菩薩(薩埵地蔵)を、この崖の上に祀ったことから「薩埵山」と呼ばれるようになったとされています。
この地蔵菩薩は、現在興津にある「東勝院」に安置されており、3年に一度御開帳されるのですが、後にそんな薩埵山を抜ける峠道が通ったことから、いつしか「薩埵峠」と呼ばれるようになったわけです。
この薩埵峠を行く道が開かれたのは江戸時代の1655年で、この年の9月に「朝鮮通信使」を迎えるにあたり、それまでの海際の危険な道を通すわけにはいかないと、幕府の威信にかけわざわざこの峠道が造られたとされています。
この新たに造られた峠道が「中道」で、より山側で江戸後期には一般的な東海道の本道となったのが「上道」、昔ながらの危険な海際の道が「下道」と言われ、この3本の道が薩埵峠を抜ける由比宿と興津宿を結ぶルートとして整備されました。
現在でも形は変われど基本的なルートはそのまま残されているので、静岡市の宇津ノ谷峠のトンネルを巡る旅などもそうですが、時代時代の道を比較しながら、また当時の情景をいろいろと想像しながら歩いてみるのも楽しいものです。
そのためにも薩埵峠について、少々事前学習をしておきましょう!
親知らず 子知らず
この峠道である中道が造られるまでの東海道はと言うと、波が打ち寄せては引くという危険な海際の下道しかなかったため、打ち寄せる波の合間を縫って通り抜けるという、時に命がけの道ともなっていました。
現在でも一番海沿いを走る東名高速の下り線は、台風が来るたびに高波により通行止めになることが多く、時には上下線のみならず、より内陸部を走る国道1号まで波を被り通行止めになるほどです。
そんなことから、道行く親子でも、親は子供を構っておられず、子供も親のことなど構っていられず我先に…となることから、いつしか『親知らず子知らず』と言われるようになりました。
この『親知らず子知らず』という言葉は、通常上記のような意味あいで使われることが多いのですが、この由比の町には、古くからこの『親知らず子知らず』に纏わるちょっと違った言い伝えが残っています。
それは孝行息子が奉公先から戻る途中に、早く親に会いたい一心で道を急ぎ、峠をよく知る地元のお婆さんの制止を振り切り、夜中に一人明りをもとに峠越えをしたところ、この薩埵峠で追剥ぎに遭い、海に突き落とされ命を落としたという言い伝えです。
このお話には続きがあり、翌朝孝行息子の安否が気になったお婆さんが、峠を越え隣町の興津のこの者の親のもとへ行くと、庭先に昨日見た息子の着物が干してあったため、無事に着いたのか…と親に尋ねたところ、この親の顔が豹変し、自らが襲った獲物が息子だったことを悟り、薩埵峠から息子の後を追い身を投げたというものです。
孝行息子は、自分の親が追剥ぎにまで身を落としていたことを知らなかっただけでなく、自らの命を親により絶たれてしまったわけで、さらには親は夜道ゆえ息子と気づかず、自らの手で息子の命を奪ってしまったという、実に悲しい結末の物語です。
この言い伝えの真偽はわかりませんが、いずれにせよこの薩埵峠がいろんな意味で親子仲良く笑顔で通れるような場所ではなかった…ということは確かなようで、同じく『親知らず子知らず』と呼ばれる静岡市から焼津市に抜ける「大崩海岸」や、その名もズバリの新潟県の「親不知」などとともに、危険な場所として道行く旅人に恐れられていたことは間違いないようです。
そんな峠の印象は広く国民が知るところとなり、江戸末期の1862年に和宮が将軍徳川家茂へ嫁ぐ際にも、すでに上道が本道となっていたにも拘らず、この薩埵峠の存在が「東海道」ではなく「中山道」経由での江戸への輿入れを促したとされています。
実は無かったこの陸地!
新潟県の「親不知」は、崖の横っ腹を肋骨状のトンネルで抜けていくような道で、その難所ぶりが車を走らせていてもひしひしと感じられる場所であり、また「大崩海岸」も実際に崩落したトンネル跡が今も残っており、見るからに難所であったことが連想されるのに対し、この薩埵峠の様子は前述の2つとは少し様子が異なります。
崖下の平坦部には道が走っており、台風などの高波による通行止めの危険性はあるものの、日常は全くと言ってよいほど難所という感じはなく、言われなければ何事もなく通り過ぎてしまうような場所となっています。
そんなことから海際とは言え、「親不知」や「大崩海岸」に比べたら、そんな『親知らず子知らず』と言うほどでもないのでは?、ましてわざわざ崖の上に新しい道など造らなくても…と、思われた方も多いかと思います。
なんでわざわざ崖の上に新しい道を造ったのか???
実際にご自身で現在のこの薩埵峠を歩かれたことがある方ならば、尚更そう感じることかと思います。むしろそう感じるのが普通であり、実はそれにはちゃんとした訳があるのです。
現在の薩埵峠の姿からは想像できないのですが、実は薩埵峠の崖下に陸地が出来たのは、江戸末期の1854年の「安政の大地震」による偶然の産物で、地震による地面の隆起がこの陸地を誕生させたのです。
それまでの薩埵峠はと言えば、新潟県の「親不知」や「大崩海岸」などと同じような断崖絶壁で下は海という状況で、とても現在のように道を通すことなど不可能だったようです。
ここではじめて納得!といった感じなのですが、実際には陸地が出来た後も、難所としての性格に変わりはなく、大正・昭和・平成と幾度となく崖崩れを起こし甚大なる被害をもたらせており、東海道線が呑み込まれ運行不能となったこともありました。
現在でも、崖崩れや地滑りなどの対策が難しい地区として、お役所も頭を抱える場所となっており、最近では2014年の台風18号で崖崩れを起こし、東海道線が10日間も不通に、国道1号も片側通行となりました。今も決して安心できる場所というわけではなさそうですね。
薩埵峠は隠れた戦の名所?
そんな薩埵峠ですが、あまり知られてはいないのですが、古より交通の要所となっており、通り抜けるスペースが限られていることから、戦においても防衛線としてこの場所が幾度となく選ばれてきました。
攻めるにもここから続く尾根を越えなくてはならず、防ぐには大軍での進攻が難しいということで、この薩埵峠が要となり数々の戦が周辺で行われいます。
後世に名を燦々と輝かせるような名勝負があったわけではないため、それほどメジャーな戦地として名が残っているわけではありませんが、南北朝時代の1351年には、将軍 足利尊氏が、弟 足利直義と対立した「観応の擾乱」にて、追討のため戦がこの辺りで行われたとされており、1568年12月12日には、武田信玄の猛攻を食い止めるべく、今川氏真が興津の「清見寺」に陣を張り迎え撃ったとの記録が残っています。
またこの戦の際に、敗走を続ける今川軍を助けるべく出陣した北条氏康が、武田と対峙したのもこの薩埵峠であり、現在その史料から知りえる情報は限られていますが、薩埵峠が歴史上幾度かその攻防線状にあったことは紛れもない事実のようです。
薩埵峠を有名にした1枚の絵!
ここに薩埵峠を有名にした、1枚の絵があります。有名にした人物は「歌川広重」。『東海道五十三次』で知られるあの広重ですが、わたしにとってもこの広重の存在は大きなものでした。
幼い頃、永谷園のお茶漬けに、広重の『東海道五十三次』の保永堂版の浮世絵が付録で付いていて、毎回どんな絵が入っているのか楽しみにしていたのですが、そんな幼い頃の記憶の中で、頭のどこかに残り忘れられない記憶となっていた絵の1つが、この薩埵峠を描いた『由井』の絵でした。
この絵が『東海道五十三次』であり浮世絵であるということを知ったのは、それからもう何年も後のことでしたが、「広重」という名は、この時覚えた気がします。
ちなみによくあることですが、この時代の由比は、「由井」とか「油井」「湯井」などと表記されており、『東海道五十三次』も由井という漢字が使われています。1899年に町制が施行された後、由比へと統一されていったようです。
そんな『東海道五十三次』の55枚の絵の中で、『沼津』の天狗や『蒲原』の雪景色、『原』の飛び出た富士山など、インパクトのある部分は、その特徴からかうっすらと記憶に残っていたのですが、この薩埵峠を描いた『由井』だけは、その独特の構図の面白さからか、また絵全体の素晴らしさからか、絵そのものを覚えていました。
海岸線より遥か高い左端の崖の上に、へっぴり腰で転げ落ちないように気をつけながら富士山を窺う人物が描かれたこの作品の構図は、現在の薩埵峠のハイキングコースそのものという感じですが、子ども心にこの構図が気に入ったのかどうかはハッキリしませんが、全体像として覚えていたのは確かです。
子供の頃の記憶は不思議なもので、後に「なんでこんなものを?」と思うものをハッキリ覚えていたりするものですが、この広重の『由井』の絵は、わたしにとってまさにそんな感じでした。
風景画を見比べる楽しさ!
『東海道五十三次』で薩埵峠を描いた作品は、この保永堂版の他にいくつかあるのですが、隷書版では保永堂版とは反対側の、富士山を背に薩埵峠の上り口を目前にした、西倉沢の茶屋の風景が描かれています。
崖の上部の輪郭は大胆にカットされ、海際のグランドレベルで、切り立った崖の様子や振り返り富士山を眺める旅人などが描かれており、保永堂版の高い視点から正面に富士山を、眼下に駿河湾を…という構図とは対照的な作品となっています。
広重作品は個人的には大のお気に入りで、特に『名所江戸百景』は風景写真を撮る者として、その場に行きたくなる衝動を生み出す、理想に近い作品だと思っています。
どれもすぐに訪れたくなるものばかりであり、江戸時代における浮世絵の「風景画」そのものが、今でいう観光ガイドブックのような存在でしたから、そう考えると尚更この作品の素晴らしさを感じます。
『東海道五十三次』も、保永堂版・行書版・隷書版など、版こそ違えど同じ東海道を描き、しかも同じ場所を異なる視点から描いた作品が数多く存在し、それらを見比べる楽しさ、現在の風景と重ね合わせる楽しさは、とても興味深いものがあります。
この由比の町には、そんな風景画を見比べる楽しさを倍増させてくれる「東海道広重美術館」もありますので、是非立ち寄って楽しんでみて下さい。
薩埵峠、どこから楽しむ?
富士山をバックに、迫りくる崖と海に挟まれたスペースに、鉄道・国道・高速道路の3つの線が走るお馴染の構図で知られる薩埵峠ですが、この薩埵峠を歩くに、どこからアクセスし楽しむのが一番か?と問われれば、多くの方が『東海道五十三次』を逆行するかたちでの、興津側から由比へと抜けるルートを薦めるのではないでしょうか。
実際ガイドブックやハイキングコースの案内も、このルートが紹介されているものが多く、何より実際の眺めも、富士山を前方に望みながら散策が楽しめるので、由比側からよりも断然おすすめとなります。
JR東海道線の興津駅より「一里塚」を横目に興津川を渡って歩いて行くと、やがて前述の上道と中道との分岐点にたどり着きます。
どちらを行っても薩埵峠の入口の駐車場まで行けるのですが、近道なのは約2.2kmの中道で、興津駅から30分もあれば、峠の起点となる駐車場までたどり着けます。
この駐車場からが、難所と言われた薩埵峠を感じることができる所なのですが、絶壁の横っ腹を這うように階段を上って行くと、「薩埵峠の石碑」や「東海道標」がある最初の絶景ポイントに出ます。
この場所は、富士山が見えるだけでなく、春先には梅や薄寒桜が咲き、富士山との共演がとても絵になる場所でもあります。
まずはここで一休み…という感じになるのですが、ここから先は多少のアップダウンはあるものの、ほとんど平坦で緩やかな道となっており、眼下に広がる駿河湾の眺めを存分に楽しめます。また道端にはたくさんの草花が咲いており、それらを観賞しながらゆっくりのんびり散策が楽しめます。
途中、東海道標から320mの所には休憩舎となる「あずまや」があり、近くに広重の薩埵峠の浮世絵などの説明書きがあります。
この辺りが道中で一番のんびりできる場所でもあることから、ここでお弁当を広げる方も少なくありません。あずまやで上品に食べるのも良いのですが、昔に帰って道端にござを広げて座って楽しむのも良いものですよ。
そんなあずまやを後にして230m程進むと、薩埵峠の旅路のハイライトとも言える「展望台」が、道の左手に見えてきます。
この辺りはわざわざ展望台に上らずとも、冒頭の写真のような、富士山をバックに崖際を走る東海道線・国道、それを緩やかな曲線を描きながらクロスしていく東名高速という、あの薩埵峠を代表する景色が眺められます。
実際に、この展望台より多くの写真が撮られているわけですが、個人的には道から海側に少し降りた、定点カメラがある場所辺りから富士山を狙った方が、キレイな構図になるように感じます。
まぁ個人の感覚の問題ですので、いろいろ場所や角度を変えながら、最高の一枚を撮影してみて下さい。ちなみにこの定点カメラは、ライブ配信もされています。
そんな展望台を過ぎると、150m位で由比側の駐車場に出ます。この駐車場は、峠道の高さまで車で上ってこられることから、車で訪れる方に人気なのですが、薩埵峠を楽しむ…という点において、あまりおすすめできません。
峠であるということが体で感じられないばかりか、やはり最初に富士山を見る感動が薄れてしまうことや、いきなりメインスポットとなるため他の楽しみが薄れ、楽しみ方という点においては良い道順とは思えないからです。
体力に自信のない方や、時間に制限がある方は仕方ありませんが、この駐車場から薩埵峠を楽しむということは、星★1つ失うような感じでもったいなく思えます。
見所いっぱいの由比の道
そんな由比側の駐車場ですが、この場所はかつて山之神が祀られていた場所だったこともあり「山之神遺跡」と呼ばれており、駐車場内に石碑が建てられています。
薩埵峠の名を広めた一人である蜀山人こと「大田南畝」が、1801年にこの地を訪れ詠んだ「山の神 さった峠の風景は 三下り半に かきもつくさじ」の歌は、かつてここにあった茶屋で詠んだとされています。
今は当時を偲ぶことができるものは、この石碑のみとなってしまいましたが、駐車場ではなくゆっくりできる茶屋が残っていれば、店の主人との会話の中から即興で詠んだとされるこの歌の意味合いも、違って感じられたかもしれません。
そんな駐車場からJR東海道線の由比駅までは、約3.5kmありますが、途中に「脇本陣倉沢柏屋」「望嶽亭藤屋」「東海道名主の館 小池邸」「東海道あかりの博物館」などがありますので、見所のある旅路となっています。特に望嶽亭藤屋は、1867年に官軍に追われた山岡鉄舟が逃げ込み変装し、隠し階段より脱出した宿として知られており、その際に置き忘れたとされるピストルも残されています。
また桜えびが美味しく頂けるお店として人気の「くらさわや」も、この旅路の途中にありますので、是非立ち寄って由比名物の桜えびを味わってみて下さい。
さらに由比駅を通り越し、旧東海道を2km程歩いて行くと、「東海道広重美術館」や「東海道由比宿交流館」がある「由比本陣公園」へと着きます。由比の町を存分に満喫したい方は、ここまで足を延ばしてみて下さい。
わたしの「薩埵峠」の楽しみ方!
薩埵峠の歩き方として、オーソドックスな興津側からのアプローチをご紹介しましたが、そういうわたしのアプローチはと言うと、あまりガイドブックなどでは紹介されていないので正式なルートとは言えないのですが、峠のど真ん中から行く薩埵峠がお気に入りとなっています。
峠のど真ん中?と言っても、現地を訪れた方ならお分かりと思いますが、海側から峠の真ん中を目指すのはいささか無理があります。不可能ではありませんが観光ルートとしてご紹介するには難しいわけで、わたしがご紹介するのは、東名高速の「薩埵トンネル」の興津側の入口上を横切る道を利用するもので、この辺りに駐車場と言ってはいけないのでしょうが、何台か車を止めるスペースがあります。
ここからご丁寧に、薩埵峠のハイキングコースへと抜ける階段状の遊歩道が整備されており、ここを登っていくと先程ご紹介した「あずまや」の横、由比側起点から約460m、興津側起点から約480mの地点に出ます。
以前は雨の日など滑って危険な道だったのですが、現在は木枠による一人分の階段が整備されており、少々角度がキツく薄暗く人恋しい道ながら、みかん畑を横目に上っていけば、車を止めて5分であずまやにたどり着きます。
わたしがなんでこの道が好きかと言えば、この階段をえっちら上って行く間は海は一切見えず、しかも薄暗くおまけに結構足にくる道でそれなりに苦労するのですが、木々をかき分け峠道に出た瞬間に、一気に開け眼前に駿河湾がドーン!と広がるその爽快感が堪らないからです。
どのルートを選んでも同じ眺めを味わえるわけですが、常に駿河湾を見ながら歩いて行くのと、茂みからドーンと開けるのとではその感動が異なるわけで、この一気に開ける感覚を味わいたくて、最近はこのルートで訪れることが多くなっています。何となく冒頭の山部赤人の気分が味わえるような…そんな気もしています。
車でのアクセスの場合、どこに止めようが行って帰ってこなくてはならないわけで、最初にえっちら上って、このあずまやで駿河湾を眺めながら一休みし、次に右手の興津側の東海道標のところまで行き、富士山の眺望や草木を楽しみ、折り返して展望台へ行きあの絶景を楽しみ、最後にこのあずまやに戻ってきて、もう一度ゆっくりと駿河湾を眺め今日の旅路を振り返り、一気に駿河湾とお別れして峠を駆け下り茂みの中へ消えていく…という流れがとても気に入っており、わたしの感性には合っているようです。
日常生活と晴れの舞台とのオンオフが瞬時に行える感じで、メリハリのある旅路であり、初めて薩埵峠を訪れる方にはおすすめしませんが、二度三度と訪れている方には是非一度試して頂きたいルートです。
もうひとつの薩埵峠の楽しみ方
薩埵峠の楽しみと言えば、富士山や駿河湾の眺望と草木の観賞がメインですが、もう一つおすすめなのが、道端にある無人販売所です。
季節や時期により変わりますが、青島みかんに甘夏・八朔・ポンカン・伊予柑など、実に豊富な柑橘類が売られているだけでなく、名物のびわや梅干なども売られています。
特にびわは場所を選ぶ植物ですが、この温暖な興津~由比の気候が栽培に適しているようで、「土肥の白びわ」とともに県内では有名で、「興津のびわ」「由比のびわ」「倉沢びわ」などとして売られています。
薩埵峠のハイキングコースを歩いていくと、その周辺にミカンやビワの木があることはお分かりになるかと思いますが、もしこんなところに…と無人販売所で見かけたら、旅のお供に買ってみて下さい。
この薩埵峠の絶景を前に食べるその味は、きっと家で食べるのとは異なり格別に美味しく感じるはずです。以前はスルーしていたわたしも、三重県の丸山千枚田でそのような経験をしてから、見かけたら食べるようになりました。
疲れた体にも良いので、是非とも食べてみて下さい。ただし、食べる前にきちんとお金は入れて下さいよ!
終わりなき変化が魅力の薩埵峠
富士山が「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録される前、当初その構成遺産に薩埵峠が含まれていました。
残念ながらその選考過程で外されることとなりましたが、現在のインバウンドによる著名スポットに外国人観光客が偏り溢れる日本の現状を考えると、今となっては逆に良かった気もしています。
霊峰富士が美しいビュースポットとして、また訪れるたびに表情を変え、いつ来ても全く違った光景を目の当たりにできるこの薩埵峠の魅力は、富士山ひとつとっても、雲があったり無かったり、その雲の掛かり方や山頂の雪の量、さらには朝焼けや夕焼けなど、日によってまちまちであり、同じ状態の日は二度と来ないといってもよいほど変化を続けます。
また駿河湾の海も、群青色に染まる日もあれば、エメラルドグリーンの輝きを見せる日もあり、また遠く伊豆半島が望めたり、多くの漁船が漁に出ていたり…と、これまた同じ状態は無いと断言できます。
さらには明け方の力強い眺めもあれば、夕暮れ時の穏やかな眺め、暗くなってからの国道や高速道路を走る車のヘッドライトが美しい夜景と、一日のうちでも多種多様な変化を見せ、これに四季の草花が加わり、それらが複雑に組み合わさって生まれる薩埵峠の光景は、無限大の広がりをみせます。
それらをゆっくりのんびり楽しめるのも、静かな時の流れの中で味わえるのも、以前と同じ環境がここに残されているからであり、もし世界遺産になっていたら…と思うとゾッとするわけで、神様の悪戯に感謝する次第です。
是非とも季節を変え時間帯を変え、そして天候も変えながら、この薩埵峠の景色を楽しんでみてください。きっと訪れるたびに、またひとつ薩埵峠の魅力を発見できるはずですよ!