伊豆の踊子の舞台「旧天城トンネル」
川端康成の短編小説『伊豆の踊子』や、松本清張の小説『天城越え』をはじめ、この場所を一躍有名にした石川さゆりが唄う『天城越え』の中で、近くの寒天橋やわさび沢などとともに直接的な歌詞としては天城隧道として登場するその場所が、伊豆を代表する観光名所となっている『旧天城トンネル』です。
正式には「天城山隧道」(あまぎさんずいどう)と言われるこの旧天城トンネルは、伊豆市湯ヶ島と、河津町梨本を結ぶトンネルで、後に造られ現在主流となっている「新天城トンネル」のある国道414号の新道から東側に逸れた天城山中にあります。
標高708.74mにあるこの旧天城トンネルは、全長445.5mで、道幅4.1m(有効幅3.5m)、高さ4.2m(有効高3.5m)の日本初の総石造り道路トンネルで、地元住民の長年の願いにより、明治時代の1905年に誕生しました。
現在では、日本初の有料トンネルだった、赤レンガが美しい静岡市の「明治のトンネル」と並び、静岡県を代表するだけでなく、日本屈指の観光名所トンネルとなっており、四季を通じて多くの観光客が足を運ぶ伊豆の一大スポットとなっています。
ハリスも嘆いた、天城越え!
この旧天城トンネルは、その名が示す通り現在は隧道としての役目は新天城トンネルへとその座を譲り、ほとんどが観光目的での通行しか行われなくなった昔のトンネルです。
地元では「旧トン」と呼ばれ親しまれているのですが、1905年に誕生してから、1970年に新天城トンネルが完成するまでの間、多くの人たちの生活を支えてきました。
"天城越え"と言われる中伊豆から南伊豆への道のりは、この旧天城トンネルができる以前は、国道を挟み反対側の旧天城峠(現:二本杉峠)を通るルートが一般的でした。
下田に入航し、玉泉寺に設置された米国総領事館に駐在していたことで知られる、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが、1857年11月23日(安政4年10月7日)に日米修好通商条約締結のために、通訳のヒュースケンら総勢350人を引き連れ江戸に向かった時に通った道も、この旧天城峠を超えるルートでした。
この天城越えのルートは、難所続きな上に、時には命がけの旅路にもなりかねない程とても険しい峠道で、ハリスの『日本滞在記』やヒュースケンの『日本日記』には、その困難を極めた峠越えの旅路の模様が詳細に記されています。
南伊豆を救った男の名は?
そんな江戸末期から明治初期の伊豆半島の情勢は、海上交通の要所となっていた南伊豆の下田と、三島宿から続く陸路に拓けた中伊豆地区とが、天城山を境に完全に分断されていて、それぞれが個々に生活圏として成り立っていました。
しかしながら1890年代になると、東海道線の開通により海上交通が衰退していき、南伊豆の住民にとっては天城山による生活圏の分断は、死活問題となっていきました。
陸の孤島となりかねない状況の中、南伊豆の住民は、なんとしても下田街道を整備し、容易に陸路で中伊豆と結ばれることを願いました。
そして、そんな住民たちの想いを受け立ち上がったひとりの男が、前代未聞の伝説を生みました。
計画が持ち上がっては、幾度と無く流れていたこのトンネルの完成に、業を煮やした下田の県議矢田部強一郎が、天城越えの下田街道の整備を訴え、壇上に短刀を突き立て決死の覚悟で議会を説得するという、県政史上類を見ない演説を行いました。
異例とも言えるこの矢田部の演説は、多くの人々を驚かせたとともに、『静岡県議会史』にもこと詳細にその時の模様が記されており、このお話は今も地元住民の間では語り草となっています。
総工費103,016円(現在の貨幣価値だと数十億円とも…)、工事関係者12名の尊い犠牲の上に、1900年の着工から5年の歳月を経て、1905年に南伊豆住民の念願であった旧天城トンネルは完成しました。
反対者と刺し違える覚悟で短刀を突き立てたことはともかく、この男の説得なくして天城山隧道の完成も下田街道の整備も無かった訳で、矢田部強一郎が南伊豆を救い、南伊豆の未来を切り開いたと言っても過言ではないようです。
職人技が光る、旧天城トンネル
現在、完成から100年以上の年月が過ぎましたが、この旧天城トンネルの造りは今も堅牢そのもので、実に素晴らしいものです。
前述の静岡の宇津ノ谷峠にある明治のトンネルもそうですが、この旧天城トンネルも、明治時代の職人技とこだわりが随所に見受けられます。
『伊豆の踊子』の小説にある、「暗いトンネルに入ると、冷たい雫がぽたぽた落ちていた。南伊豆への出口が前方に小さく明るんでいた…」の言葉通りに、トンネル内に入ると、まず最初にその暗さと寒さを感じます。
そして、正面にポツンと見える反対側の出口の明かりを目指して足を進めていくと、頭や肩に雫がぽたぽたと落ちてきて、さらに一層冷え込んでいきます。
やがて暗さに目が慣れてくると、今度は職人技が光るトンネル内部の石造りの凄さに驚かされます。
普段、コンクリートの味気ないトンネルに慣れているせいか、一個一個表情の違う切り石で築かれたこのトンネルの壁面は、見れば見るほど美しさが感じられ、その芸術性が深まっていきます。
運がよければ、クルマが通過する際に、ヘッドライトに照らし出されあらわになったトンネル内部を見ることができますが、じっくり観察したい方は、予め懐中電灯を持っていかれた方が良いかもしれません。
そんな旧天城トンネルの石材は、伊豆の国市にある旧大仁町の「吉田石」が使われており、切り石巻工法という、石を1つ1つ積み上げていく、とても手の込んだ手法で造られています。
その数は実に35,000個以上と言われており、気の遠くなるような作業の繰り返しだったのでしょうが、石造りにおいては一つの石が全てでもあり、気のゆるみが石組みのゆるみへと繋がりますので、一つ一つの石に対する職人の気持ちが、ここに表れているように感じます。
写真ではなかなかうまく伝わらないですが、実際に旧天城トンネルを訪れ、じっくりと眺めて頂ければ、ここでいちいち言葉にするべくもなく、一目でその芸術的な素晴らしさがご理解頂けるかと思います。
旧天城トンネル内を歩く際は、肝試し気分で出口に向かって歩くのも、それはそれで面白いものですが、是非壁面に近づき実際に手で触ったりしながら、その職人技が光る石の削り面や感触、積まれ方などを確かめてみて下さい。
同じ手造りでも、滑らかな壁面となるレンガ造とはまた違った味わいと奥深さがありますよ!
南北入口の題字と要石に注目!
そんな旧天城トンネルを見る上で、絶対に見逃してほしくないのが、北口となる湯ヶ島口と、南口となる河津口の南北両入口に見られる職人のこだわりです。
トンネルに入る前に、是非見上げて欲しいのですが、南北のトンネル入口には、右書きで書かれた『道隧山城天』の題字が掲げられていて、その下にはアーチを支える要石があり、入口をそれとなく飾りたてる笠石や帯石…と、見れば見るほどその造りのこだわりようが伝わってきます。
特に南北の入口で、題字と要石の彫り込みや彫り出しのデザインが異なる点や、さらには題字と要石の凹凸が南北で互い違い(北:題字凸・要石凹、南:題字凹・要石凸)になっている点などは、職人のこだわりそのものを感じます。
また南側が「凝灰岩」で造られているのに対して、北側は「玄武岩」と特別で、全体的な彫の精度やデザインなども鑑みるに、北口の方がやや豪華な造りに思え、こちらが旧天城トンネルの正面になっているように思えます。
是非トンネルを歩く際には、トンネル入口上部を、よ~く眺めてからお進みください。
そんな職人技が光る芸術的なこの旧天城トンネルは、1998年9月に国の登録有形文化財になると、2001年6月15日には、道路としては初めて国の重要文化財に指定されました。
建造されてから100年が過ぎても、崩壊せずまた全く色あせることなくこうして評価されるていることこそが、キラリと光る職人技の証でもあります。
踊り子達を追いかけて・・・
1926年に『文芸時代』に発表された、川端康成の『伊豆の踊子』は、過去に幾度となく映画やドラマ化されており、田中絹代・美空ひばり・吉永小百合・山口百恵…と、時代を担うそうそうたる女優陣が踊り子を演じてきており、相手役の学生も高橋英樹・三浦友和、そして木村拓哉までが、この『伊豆の踊子』を演じています。
いつの時代にも愛され続けているこの作品ですが、そんな踊り子と学生たちが歩いた旧天城トンネルを含む峠道が、現在ハイキングコースとして整備されています。
「踊子歩道」と呼ばれるこのハイキングコースは、浄蓮の滝(じょうれんのたき)から河津七滝(かわづななだる)へと伸びる、全長18.5kmの散策路で、1982年に天城峠として『日本百名峠』に、1986年8月には天城路として『日本の道100選』に、そして2002年には踊子歩道として『遊歩百選』に選ばれています。
休日には作品に思いを馳せながら周囲の景色を楽しむ方たちで賑わっている踊子歩道ですが、特に秋の紅葉シーズンは、見ごたえのある景観と紅葉狩りが一緒に楽しめ、それに合わせて毎年11月に「伊豆天城路もみじまつり」も開催されます。
この旧天城トンネルでも、踊り子さんを交えた楽しいイベントが行われますので、是非タイミングが合う方は、この時期に訪れることをおすすめします。
また現在は特別運行だけとなり、走る機会も減りつつありますが、昔懐かしいボンネットバスが走る天城路。かつて踊り子一行が歩いた物語の舞台となった旧天城トンネルを、あなたもその足で歩いてみませんか。