推定樹齢1000年とも言われる、日本五大桜!
富士の裾野に壮大な伽藍を見せる大石寺の北、白糸の滝とのちょうど中間地点あたりの県道75号沿いに、一本の有名な桜の木があります。
狩宿と呼ばれるこの地で、毎年4月上旬~中旬にかけて無数の花を咲かせるその桜の木が、日本五大桜のひとつに数えられる「狩宿の下馬桜」です。
狩宿の下馬桜は、鎌倉幕府を開いたことで知られる源頼朝が、1193年にこの富士山麓で巻狩りを行った際に、陣屋に戻り下乗して門前にあった一本の桜の木に馬を繋いだとされる桜の木で、そこから下馬桜という名が付いたとされています。
また馬を繋いだということから、古典における雅語で「駒止めの桜」とも言われています。
さらに別の言い伝えとしては、頼朝が富士の山野を巡った際に使用した桜の杖を、この地に刺しておいたら、やがて根付き成長して花を咲かせた…という伝説も残されています。
いずれにせよ頼朝ゆかりのこの桜の木は、樹齢830年以上なのはほぼ間違いなく、推定樹齢1000年とも言われており、今も尚たくさんの花を咲かせ、わたしたちを喜ばせてくれています。
心を繋ぐ!特別天然記念物
この狩宿の下馬桜は、学名を「赤芽白花山桜」といい、咲き始めこそ淡いピンクの花を咲かせますが、徐々に白色へと変わっていきます。
かつては、目通り8.5m、枝張り東西22m、南北16mもあったとされ、1952年3月29日には、『狩宿の下馬ザクラ』として国の特別天然記念物に指定され、日本最大の山桜とも言われていましたが、度重なる台風などにより損傷し、現在ではその面影は感じられない程の大きさとなってしまいました。
しかしながら、歴史あるこの桜の木は、周囲の木々とはやはり一線を画す風格を漂わせており、毎年大切に手入れを行ってきたこともあり、まだまだ時間はかかるものの、徐々に往時の姿を取り戻しつつあります。
徳川幕府最後の将軍となった15代将軍徳川慶喜は、この桜の木にちなんで、『あわれその 駒のみならず 見る人の 心をつなぐ 山桜かな』と詠んでいますが、大きさこそ違えど今も昔もこの桜の木は、見る人の心を繋ぎとめています。
桜のバックに高麗門!
そんな桜の木の向こうの奥に、狩宿の下馬桜と言われる所以となった巻狩りの際に、頼朝一行が本陣を置いたとされる場所が残されています。
建物こそ変わってしまいましたが、現在も立派な門構えをみせているこのお屋敷が「井出家 / 井出館」で、中世以来の名家として地元では知らない人はいないくらい有名な家となっています。
現在の建物は、江戸時代に焼失後再建されたものですが、風格ある表門の「高麗門」と、それに続く「長屋」は実に立派な造りとなっており、豪族だった井出家の歴史を物語っています。
1995年3月16日には、『井出家高麗門及び長屋』として富士宮市指定文化財となっており、旅行ガイド等の撮影はもちろんのこと、ロケ地として使用されることもあり、知らずに狩宿の下馬桜を訪れた方も、遠くに佇む一風変わったその姿に、吸い寄せられるように近づきご覧になっているようです。
頼朝ゆかりの歴史あるこの地の雰囲気を盛り上げる意味でも、一役かっているこの珍しい建築物を、みなさんも是非ご覧になってみて下さい。
一本桜に、広大な菜の花畑!
狩宿の下馬桜を訪れる際の楽しみとして、一本桜の鑑賞や井出家の高麗門を見ること以外に、もうひとつ楽しみがあります。
それが、この狩宿の下馬桜の北側に広がる一面の菜の花畑です。
この菜の花畑は景観づくりの一環として、桜の開花時期に合わせ農閑期の田んぼに植えられているものなのですが、桜の花とのコントラストが実に美しく、青空とともに桜の花の美しさを倍増させてくれています。
同じような試みは、「河津桜まつり」や「みなみの桜と菜の花まつり」の日野の菜の花畑など全国各地で見受けられますが、一本の名木のためにこれだけのスケールでお膳立てしているというところが、さすが日本五大桜と思わせるところでもあります。
また、菜の花畑を巡りながら、視点を桜の木から移すと、そこには雄大な富士山の風景があり、菜の花畑に浮かぶ富士山の光景は、狩宿の下馬桜に負けず劣らず美しいものとなっています。
狩宿の下馬桜を訪れた際には、一本桜の観賞だけでなく、この菜の花畑の周辺も散策しながら、あなただけの美しい光景を見つけてみて下さい。
富士宮市には、大石寺や富士桜自然墓地公園・興徳寺など、ソメイヨシノの桜の名所があちこちに点在していますが、若干開花時期が異なることもあり、なかなかこの狩宿の下馬桜のためだけに遠くから訪れるのは難しいかもしれません
ですが、毎年桜の開花に合わせて田楽や茶会などが催される「狩宿さくらまつり」も開催されていますので、是非歴史ある一本桜である狩宿の下馬桜を見に、富士の裾野を訪れてみてください。