山中城跡とは?
静岡県三島市山中新田~函南町桑原にかけてある、室町時代の永禄年間に、後北条氏 3代当主の 北条氏康 により築城され、1590年の豊臣秀吉の東征により落城し廃城となった後北条氏の山城跡。
1934年に 国の史跡 になると、1973年からの発掘調査をもとに三島市により整備が行われ、1981年に 山中城跡公園 として一般に公開。2006年には、駿府城・掛川城とともに『日本100名城』に選定。
天守も石垣も無い 土の城 ながら、後北条氏の城づくりの特徴でもある 障子堀 や 畝堀 が見られ、2000年代から始まった城ブームも追い風となり、今では人気の観光スポットに!
山中城跡の見どころ
日本100名城!山中城跡
三島市の中心市街地から国道1号で箱根山へと登って行き、山中城口交差点を折れ400m程走ると、やがて 山中城跡 の大きな看板が見えてくる。以前はこの山中城の間を抜ける集落があるこの道が国道1号だったのだが、山中城1号/2号トンネルによるバイパスルートが完成しルート変更となったため、山中城一帯は昔に比べてかなり静かになった。
かつては引っ切り無しに大型トラックなどが行き交っていたので、山中城跡前の横断歩道には信号機が設置されていたのだが、現在は廃止されている。
そんな山中城は、室町時代の1567年~1569年頃の永禄年間に、後北条氏 3代当主 北条氏康 により築城された箱根山中腹の標高540m~580mに広がる山城で、1934年1月22日に東京ドーム約2.5個分の広さとなる117,856.91㎡が 国の史跡 に指定されている。
箱根旧街道の石畳 として親しまれている旧東海道を取り込む形で、三方の尾根をうまく利用した"うの字"のようなカタチをした南西方向に口を開く縄張りで、街道筋に睨みを利かしつつ、足柄城・韮山城 とともに後北条氏の居城となる小田原城の西の防衛線として機能した。
ちなみにNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で知られる鎌倉幕府の執権を務めた北条氏に対し、戦国武将の 北条早雲(伊勢盛時)を祖とする北条氏は、時代も流れも全く異なるのだが、伊豆や相模など勢力エリアがダブり紛らわしいことから、あえて 後北条氏 とか 小田原北条氏・北条五代 などと呼ぶことが多い。
話は戻るがそんな山中城は、1590年の 豊臣秀吉の東征 による 山中城合戦 にて落城し廃城。それから1973年に三島市による本格的な発掘調査が行われるまでの約400年もの間、日の目を見ることなく箱根西麓に眠り続けたが、1981年4月29日の市制40周年の日に、障子堀や畝堀など後北条氏独特の城郭建築を色濃く残しつつ 山中城跡公園 として現代に蘇った。
その後補修や整備を繰り返しつつ、2006年4月6日には 駿府城・掛川城とともに『日本100名城』に選定。約700ある静岡県の城の中で、さらに天守も石垣も無い当時は無名に近かった 土の城 が、家康ゆかりの浜松城を差し置いて『日本100名城』に選定されたことから、浜松市民の怒りが爆発したのを今も思い出す。
浜松城は、その後の2017年4月6日の『続日本100名城』にて、興国寺城・諏訪原城・高天神城とともに選ばれたのだが、私自身山中城が選ばれた2006年当時は、浅識だったこともありビックリしたが、今となっては真っ当な選定だったとつくづく感心する。
お前はもう死んでいる!? 三ノ丸堀
そんな山中城の 三ノ丸 は、現在は道路や住宅地となっていてハッキリとはわからない。駐車場の入口辺りが大手口となっていて 二階門 が建っていたようだが、道路や宅地の造成工事が行われたためほとんど原型を留めておらず、発掘調査の難しさもあり三ノ丸がどのようになっていたのか全容は定かではない。
現在、山中城跡公園にはいくつかの入口があり、山中城跡を巡る探訪ルートに一方通行などの制限があるわけではないが、ほとんどの方が駐車場近くの 三ノ丸堀 から入り「障子掘・畝堀探訪コース」と言われる堀メインのルートで巡っているようだ。残念ながら天守台や北の丸に行く方は少なく、通りを挟んだ向かいの袋崎出丸まで行く方は更に少ない。
そんな三ノ丸堀は、長さ約180m 幅30m 深さ約8mで、三ノ丸横を行くこのルートは、攻め上る際には正面や横より一斉射撃を受けたであろう造りとなっている。
ボーっとしていると、歩き始めてすぐの写真の辺りで「お前はもう死んでいる!」という状態になっているかもしれない。
ちなみに、以前は上の写真のように道の左手(堀側)にもズラーっと ツツジ が植えられていたのだが、再整備される中で撤去されている。さて、あなたは山中城を攻略できるかな?
睡蓮が咲く田尻の池!
三ノ丸堀横を進んで行くと、やがて 田尻の池 が現れる。築城当時は伝染病の予防などにより人と馬の飲み水は区別されていて、この田尻の池は馬のための溜池で、人工的に堰堤を築き隣りの 箱井戸 と区切り貯水していた。
田尻の池の西側には 厩 があったことがわかっており、池に張り出す形で洗い場も設けられ、馬に水を飲ませたり馬を洗ったりしていたようだ。
そんな田尻の池には数は少ないが 睡蓮 があり、6月~8月にかけて白やピンクの花を咲かせる。以前は上の写真のように、ここに アヤメ が植えられていたが、現在は姿を消している。
維持管理など予算的な制約もあるのだろうが、山中城跡公園として公園色が強かった時代から、現在は土の城としての山中城本来の姿に戻るべく作業が行われている印象だ。
隠れた紫陽花の名所の箱井戸!
山中城の 箱井戸 周辺には、再整備によりたくさんの 紫陽花 が植えられており、隠れた 紫陽花の名所 となっている。
一帯が同じアルミニウム含有量が多い酸性土壌のようで、アントシアニンと結合し青色の花を咲かせている。しかも全て同じと言ってもよいほど同色の青いアジサイとなっており、ふじさんめっせ の全面赤紫のアジサイを見た時にも感じたが、これはこれで新鮮だ。
ここもまた以前は上の写真のように、たくさんの 睡蓮 が咲き、5月には アヤメ や キショウブ も咲いていたが、現在は木々の伐採なども行われ 紫陽花 に取り囲まれている感じだ。
ちなみに勘兵衛の『渡辺水庵覚書』によると、三ノ丸と二ノ丸を繋ぐ長さ18m程の 欄干橋 が架けられていたという記述があり、冒頭の縄張図から考えると、田尻の池と箱井戸があるこの辺りの上を跨ぐような形で架けられていたのか?…となるのだが、別の説ではそもそも二ノ丸の場所が間違っていて、冒頭の縄張図で言うと "山中バス停" の上の "山中新田" と書かれた場所が二ノ丸であり、三ノ丸との間に水堀があり、そこに架けられていた橋だという。
この説によると、西ノ丸や西櫓などの西側の防御に対して、あまりにも本筋である街道側の構えが弱いという前提で、芝切地蔵 辺りの南櫓が西櫓と同じ位置づけで三ノ丸の馬出となっていて、奥へ奥へと三ノ丸・二ノ丸が連なっていたとしている。街道からは真正面に段上に南櫓・三ノ丸・ニノ丸が見えていた…ということだろう。
話を聞いていると、どれここれもそうなのかぁ~となり夢が膨らむのだが、そこがオモシロい訳で、これが歴史ロマンなのだろう。真実はいかに?
元西櫓下のポッコリつつじ!
田尻の池から堀沿いに進むと、やがて 元西櫓 下に至る。元西櫓については後ほど説明するとして、ここに山中城の裏メニューとも言える名物の ポッコリつつじ がある。
何度も山中城には訪れているのだが、いつもタイミングを逸しているようで、ツツジがキレイに咲く姿を目にしたことが無い。5月に訪れても、その年の気候に左右されたりして、いつも早かったり遅かったりで少し色づく感じの季節となる。
それはさておき ポッコリつつじ は、以前よりもあちこち撤去が進み数は減ったが、それでも山中城の至る所で見られる。山城・土の城として本来の山中城の姿ではないのだが、この光景を見たくて訪れる人も多いので、再整備後も残されている感じだ。
これぞ北条の城づくり!と唸る畝堀
西ノ丸や西櫓の周囲には、これぞ北条の城づくり!と唸る 堀障子 による 畝堀 が続く。幅約2m 長さ8~9mで、現在は浅くされているが畝を残し深さ1.8m程掘り下げられたものが一区画となり、それが連続して続く感じの畝堀だ。
今は広げられているが、攻め込む際には狭い畝上の部分を歩くしかなく、しかも一列でしか進軍できないうえ、目線が下がり足元に意識が行くため、前方の土塁上の敵から狙われやすくろくに対応できない。弓や鉄砲を避けようとして堀底に落ちれば容易には上がってこれず、これまた袋のネズミと化す。
法面は50~60度の急傾斜となっており、しかも山中城は粘土質で大変滑りやすい特性を持つ 関東ローム層 に築かれているため、前述の通り落ちたら最期、アリ地獄の如く抜け出すことはまず不可能で、一斉射撃を受け万事休すとなる。
現在は堀は 立入禁止 となっているが、一区画でもどこかに畝堀に落ちた感覚を試せる場所があるとよいのだが…と思う。くれぐれも一人で行って誤って堀に落ちないように注意して欲しい。場所によっては誰も来ないと大変なことになるよ!
実際、山中城の発掘調査の際には、堀に落ち滑って上れなくて苦労したという逸話が残されているよ!
山中城が誇る見事なまでの障子堀!
山中城を一躍人気の城に押し上げたのが、見事なまでの 障子堀 だ。この場所が山中城跡の最大の見どころとなっているのだが、畝堀同様一度落ちたらまず上ってこれず、為す術もなく討ち死にとなる。
畝堀のところでも書いたが、現在の畝は幅が広く容易に歩けそうだが当時はそうはいかず、ヨロヨロしながら畝堀をいくつも乗り越えていかなければいけない感じで、障子堀は石垣が無くとも攻めあぐねる実に怖ろしい堀となっていた。
ちなみに 堀障子 と 障子堀 という用語。ややこしいのだが厳密にはこれらは異なる。堀の底を細かく区画割する感じで、仕切りのように残された畝を 堀障子(単に障子とも言う)という。言い方を変えれば土塁状の障害物となるのだが、そんな堀障子が設けられている堀を、障子がある堀ということで 障子堀 と言う。
障子堀はもともと障害物を意味する障子に由来する言葉となるのだが、いつしか見た目が住宅の障子の桟に似ていることから、そこから来ていると思う方が多くなりそれが俗説となった。それはそれで障子堀がどういうものなのかをイメージしやすく、端的な説明にもなっているので、まぁ良いのでは…と個人的には思う。
それに障子堀というものの理解が進み、それにつれてその代表格である山中城の認知度もアップしてきたというのも事実であり、むしろ似ていて感謝!?という気持ちだ。
ワッフルのような障子堀!
そんな後北条氏が築城した城らしい独特の形状が魅力の 障子堀 は、よくその見た目が焼菓子の ワッフル に似ていることから、説明の際にそう例えられることが多い。
わざわざ山中城跡を訪れる際にワッフルを買って行き、ワッフル片手に障子堀とのツーショットを撮影する人の姿も見受けられる。
このワッフルに例えられたことがSNSで話題性を生み、テレビや雑誌でもその見た目のインパクトとワッフルというかわいらしさがウケて採り上げられるようになり、山中城の知名度を大きく押し上げた。先程の障子の桟とは比べられない程の影響力となった。
実際には障子堀は末恐ろしい堀であり、甘い香りに誘われてむしゃぶりついたら最期、抜け出ることができず危険だ!
むしゃぶりつくは当て字で"武者振り付く"とも書くようだが、山中城のワッフルには、決して武者振り付いてはいけない!
富士山が望める展望地点!
そんな畝堀や障子堀を隔てて西ノ丸や西櫓を取り囲むように配置されているのが 帯曲輪だ。二重の防衛線を敷くことで、西側の守りをより強固なものとしている。ここに『史跡 山中城址』の石碑が建っていて、晴れた日には西櫓同様、富士山 が一望できる展望スポットとなっている。
そして帯曲輪からさらに下った先に 西木戸がある。山中城合戦で、徳川家康の軍勢が押し寄せてきたとされる場所だ。
落ちたら最期、深さが際立つ畝堀!
秀吉の小田原征伐を前に拡張された西ノ丸と西櫓の周りには、ぐるりと堀障子が見られるのだが、この辺りの 畝堀 は深さが際立つ。もちろん当時の姿とは違い復元の仕方により深さも変えられているのだが、幅が狭く傾斜がキツイ分深さが際立つ。
先程の畝堀の写真では、出られそうだなぁ~と感じた方も、こうなるとその難しさが感じられると思う。それ以上にこうして上から見下ろしている時点で、いかに袋のネズミと化しているかがよくわかると思う。
西側防御の前線基地となる西櫓!
本丸から二ノ丸・元西櫓・西ノ丸・西櫓と続く主尾根となる西尾根上に位置する 西櫓。西櫓は30m×20mの独立した曲輪で、後北条氏の 角馬出 とも言われる西側防御の前線基地だ。晴れた日には 富士山 が一望できる。
実際には西櫓よりも畝堀を隔てた先に、先程ご紹介した『史跡 山中城址』の石碑が建つ 帯曲輪 があるのだが、西ノ丸をより強固なものとしているのは、土塁を巡らしたこの西櫓にほかならない。
ただ西ノ丸よりも低く造られ、しかも西ノ丸側だけ土塁が無く内部が丸見えになっていることから、仮に攻め落とされた時にも西櫓が拠点となって西ノ丸を攻められないように考えられている。
主役は西ノ丸ではなく、その周り!?
西ノ丸 は、秀吉の小田原征伐を見据えて拡張された曲輪で、緩やかに東に傾斜しているものの、二ノ丸に比べたら真っ当な平坦地と言える。
周りを囲む障子堀や畝堀にすっかり主役を奪われた感じで、西ノ丸そのものにはこれといった見所は無い。
ただ西ノ丸は山中城跡の中でも、特に日当たりや照り返しが厳しく木陰も少ないので、夏の日など暑い時には水分補給などに気を付けよう!
西ノ丸に咲くフジの花!
西ノ丸に小規模ながら 藤棚 があり、例年4月末~5月中旬にかけて薄紫のフジが高貴な香りを漂わせながら咲く。西ノ丸以外にも 本丸 と袋崎出丸の 御馬場曲輪 に藤棚があり、それぞれ見事な花を咲かせる。
一番大きいのは本丸の藤棚なのだが、品種が違うのか日当たりの影響なのか、本丸のフジはやや遅くれて咲く感じだ。
フジが咲く5月の初夏の日差しでも、十分にキツイ日もあり日陰が恋しくなるわけで、そんな時に藤棚は水分補給などで一服するのにちょうど良い場所だ。
眺めの良い、西ノ丸見張台!
標高580mとなる西ノ丸の西側の一角に、盛土により意図的に築かれた 見張台(物見台)がある。ここに立つと西ノ丸(2つ前の写真)が一望できる他、反対側を見れば先程ご紹介した西櫓(3つ前の写真)も丸見えだ。
西ノ丸見張台は、物見台としての役割と、西櫓が陥落した際の西ノ丸の防衛線としての機能を兼ね備えている。
元西櫓から望む西ノ丸と見張台!
二ノ丸と西ノ丸の間にあるのが 元西櫓 だ。上の写真はその元西櫓から見た西ノ丸と西ノ丸見張台だ。
元西櫓は、先程ポッコリつつじの所でも登場した曲輪なのだが、ポッコリつつじは上の写真よりも左側となる。
元西櫓は名前もさることながら、何となく中途半端な感じがする曲輪なのだが、それもそのはずで、秀吉の東征に備えて城の拡張が行われる以前は、この場所が西櫓として城の西端となっていた。
機能としては今の西櫓と同じ位置づけで、言うならば二ノ丸+元西櫓 ⇒ 西ノ丸+西櫓 へとコピペしたような感じで、西側へと大きく縄張りが広がったカタチとなる。
生命線となる水の確保の努力がココに!
二ノ丸と西ノ丸の間、元西櫓の裏手には 溜池 があったようで、発掘調査では4mほど掘削するも池の底が確認できなかったという。相当深い池だったのだろう。
山田川の支流を盛土により仕切って造られたとされ、堀の水の他、地面の傾斜を利用して集められた西ノ丸や元西櫓の雨水もここへ流れる落ちる仕組みとなっていたようだ。
山城にとって人馬ともども 水は生命線 であり、特に籠城戦となればその重要性は増す。川や井戸・湧水だけでなく、あらゆる水をかき集めて貯水する努力がここに感じられる
復元された二ノ丸橋!
元西櫓と二ノ丸とを結ぶ、幅1.7m 長さ4.3mの 四本柱の 二ノ丸橋 だ。もちろん復元された木橋なのだが、位置や大きさがハッキリしたということで復元されている。発掘調査による賜物と言える。
本丸との間にも 本丸西橋 という木橋が架かるのだが、その間に位置する 二ノ丸 は 北条丸 とも言われ、約85m×45mほどの広さがあり、南を除き三方を土塁で囲む造りとなっている。
先程コピペという表現をしたが、実際には西ノ丸とは大きく異なり、西ノ丸の所でも書いたように、二ノ丸を歩いてみると他の曲輪とは段違いに体感できるレベルで南へ向かって かなりの傾斜 が付けられている。
岐阜県の養老天命反転地とまではいかないが、ここに長時間いると三半規管がおかしくなりそうで、まして動き回る兵は、守る兵も攻めてきた兵も戦の際にはこの傾斜に悩まされたことだろう。
二ノ丸は城の改修前からあった曲輪なので、この傾斜は意図したものと考えられており、また田尻の池方面への雨水の集積という面もあったと思われるのだが、専門家の中には元々手を加える必要性が無い場所だった…とか、築城時にも改修時にも手が回らなかった…とする考えの人もいるようだ。これまた真実はいかに?
意外に知られていない天守台!
山中城は堀が魅力の土の城ということもあり、意外に知られていなのが、本丸の北東の隅に 天守台 があることだ。
天守台と言っても、いわゆる城郭建築の花形である何層もの天守がそびえていたわけではなく、木の櫓が築かれていた所で、櫓台という方が相応しいのかもしれない。
実際に山中城の縄張図によっては、ここを 天守櫓跡 と記しているものもある。
最後の戦場となった天守櫓跡!
山中城で一番の高台となるその 天守櫓跡 には、約7.5m角の方形の基壇が残されている。ここに 井楼櫓 が築かれていたというのが通説だ。
山中城合戦において最後の戦場となった場所であり、天守櫓は押し寄せてきた中村一氏隊をはじめとする豊臣方により力ずくで制圧された。
その際この天守櫓跡は、パニックとなり一目散に本丸から逃げ上った北条方の200人の兵でおしくらまんじゅう状態となったという。
それを豊臣方が下から槍で突き徐々に追い詰め北条方が半数ほどになった頃、名乗り出た大将の首があげられ、それを期に豊臣方が一気に四方より天守櫓に詰め寄ったため、敵味方が入り乱れ半数は堀に落ち櫓の段も崩れ落ちたという。
その時真っ先に攻め入り中村隊の馬印を掲げたのが勘兵衛とされ、敵味方に豊臣方の勝利を知らせた。
天守台から見下ろす本丸!
天守台に登ると 本丸 が見下ろせる。北東に天守、北に北ノ丸、南西に二ノ丸、そして南は虎口や兵糧庫がある、標高578mに位置する山中城の要となる曲輪だ。
広さ1740㎡と二ノ丸や西ノ丸に比べると狭いわけだが、そもそも本丸とはそういう位置づけであり、この規模の山城であれば普通と言える。大きさ的には、伊豆国一の宮である 三嶋大社 の本殿(正確には参拝をする拝殿+幣殿+本殿の複合社殿)と、ちょうど同じ大きさになる。
そんなものか…と思うかもしれないが、実は三嶋大社の社殿は参拝時に目にしている拝殿の幅よりも奥に幣殿と本殿が連なり奥行の方が長い。神社においてはよくあることだが、横の参道を歩くとよくわかる。
話がそれたが、西ノ丸の所で触れたようにここにも 藤棚 があり、その辺りに 広間 のある建物が建てられていたとされる。山中城合戦の際には勘兵衛の記録によると、広間に入りきれずに下段にまで溢れた武装兵が200人ほど控えていたという。先程パニくって天守台へと逃げ上った、あの200人の輩だ!
本丸下にある兵糧庫跡!
本丸から一段下がった所に平坦地があり、さらに一段下がった所に 兵糧庫 があった。発掘調査により、3間×4間の建築物だったことを示す礎石が見つかっている。現在ある上の写真の建物は休憩施設であり、兵糧庫が現存しているわけではないので誤解の無いように!
またこの兵糧庫の礎石の西側には 弾薬庫 があったとされ、反対側の林の中には 駒形諏訪神社 が鎮座し、その近くに 駒形諏訪神社の大樫 や山中城のシンボル的存在だった 矢立の杉 がある。
本丸と北ノ丸を結ぶ本丸北橋!
本丸と 北ノ丸 との間には、深さ10m 幅17mの畝堀があり、そこに架けられた橋が 本丸北橋だ。本丸と北ノ丸を結ぶ重要な橋で、発掘調査により土橋ではなく木橋だったことがわかったため復元されている。
一番まともな!? 北ノ丸
北ノ丸 は本丸から北方に伸びる尾根上にある60m×30mほどの方形の曲輪で、この先に謎が多い未完の曲輪とされる ラオシバ曲輪 がある。降り立ってみると、山中城の数ある曲輪の中で、カタチ的には一番まともというか整然としている印象だ。
そんな北ノ丸は本丸側を除き三方が土塁で囲まれていて、位置づけとしては本丸の馬出的な前線基地となっていたようだ。
本丸北橋にて本丸や天守台と直結し、西ノ丸からも帯曲輪を経由して通じる林の中を抜ける道があるのだが、その重要性からこの道の虎口には門が設けられていたことが推察され、一説には三ノ丸同様に二階門が建てられていたのでは…と言われている。
うん?函南遺産!? となる袋崎出丸!
見事な障子堀が印象的な本丸側と通りを挟んだ向かいにあるのが、標高540~560mで広さ約23,000㎡の、本丸から三の丸・南櫓と続く南西の尾根上にある 袋崎出丸 だ。袋崎出丸と書いて「だいさきでまる」と読む。
出丸というと、大阪冬の陣において大阪城の南に築かれた「真田丸」をイメージする人も多いと思うが、本城から張り出して築かれた出曲輪のことを言う。
そんな袋崎出丸だが、初めて山中城を訪れてから長らく気づかずにいたのだが、実はちょうど上の写真の辺りが三島市と函南町の境界となっており、ここから南側の 御馬場曲輪 や 物見台 がある辺りは、三島市ではなく函南町となる。
旧東海道が走る袋崎出丸の西側には 一ノ堀 があるのだが、この堀に沿うようにやはり境界があり、袋崎出丸の7割近くは函南町と言っても過言ではない。
そんな袋崎出丸だが、現在はキレイに整備が行われているが、初めて訪れた際には何とも言えぬ中途半端さを感じた。広さもなかなかの規模ながら、本城に対して扱いの悪さを感じた。
山中城跡の整備事業を一括して三島市が行っていたからだとは言わないが、見事な 畝掘や、あえて水が溜まりやすくした珍しい すりばち曲輪、そして三島や沼津の市街地を一望できる素晴らしい景観が魅力の 物見台 など見所の多い場所ながら、どこか後回しになっているような力の入れようの差を感じていた。
そんなことから小田原征伐の際に、合戦に間に合わず未完のまま豊臣方を迎え撃つこととなったこの袋崎出丸の不完全なイメージをそこにダブらせ、これも袋崎出丸の宿命か…などと勝手に思い込んでいたりもしたものだ。
今となっては単に限られたリソースの中での年度ごとの整備計画の順番と、たまたま自分が訪れたタイミングによる問題だったわけだが、今でも袋崎出丸を訪れると、本丸側とは少し違う面持ちとなる。それはこの場所に、また別の感情が加わっているからでもある。
未完のまま山中城合戦の舞台に!
袋崎出丸は、冒頭で山中城の縄張りを"うの字"のようなカタチと表現したが、その南西に開いた口に被りつくように大手口に迫りくる敵を、高所から狙い撃ちにする要所となっていた。
実は後北条氏 5代当主 北条氏直 は、豊臣秀吉より宣戦布告を受けた天正17年11月24日(1589年12月21日)の2年以上前から、先んじて山中城主となった 松田康長 に城の改修を命じていた。足柄城・韮山城 とともに西の防衛線を築くためだ。
だがこの袋崎出丸はというと、その改修とは別に宣戦布告後に急遽築かれることとなったもので、3ヶ月余り突貫工事が行われていたが、いよいよ情勢がそれどころではなくなり、天正18年3月29日(1590年5月3日)の朝、未完のまま合戦の火蓋が切られ激戦地となってしまった。
先程、三島や沼津の市街地を一望できる素晴らしい景観…と書いたが、ここに立ったら一度想像してみて欲しい。準備不足な上に圧倒的な兵力で沼津より迫りくる豊臣方の進軍を、物見台より目の当たりにした兵士の心境を…。
半日で落城した、至高の山城!
天正18年3月29日(1590年5月3日)早朝、沼津より進軍してきた豊臣方の主力部隊 67,000~68,000 が山中城に対峙。右軍として 池田輝正、西ノ丸側に左軍の 徳川家康、中央に総大将の豊臣秀次・中村一氏・一柳直末(ひとつやなぎ なおすえ)、第二陣として 山内一豊 などが布陣した。
迎え撃つ北条方は 約4,200 と言われ、城の改修を行った城主の 松田康長、副将格の 間宮康俊 の他、北条一族の 北条氏勝 らも援軍として名を連ねた。
そして 山中城合戦 において袋崎出丸の守備を担ったのが、この副将格の 間宮康俊 で、わずか100人余の手勢を率い打って出ては引き、また突撃しては退散しを繰り返し奮戦するも、2時間ほどで袋崎出丸は陥落。
そんな中、間宮康俊は"倒るる所に土を掴む"ように、秀吉子飼いの家来だった一柳隊の大将 一柳直末 を銃撃で討ち取り一矢報い、その後戦場へと散って行った。御年73歳だったというのだから驚きだ。ちなみに樺太探検で知られる 間宮林蔵 は、その子孫となる。
そして山中城は西ノ丸側からも次々と曲輪が攻め落とされ、圧倒的な兵力差の前に力ずくで本丸まで制圧され、半日で落城 したとされる。
正午前や正午過ぎに陥落したという説もあれば、14時半だとか16時半頃だったという見方もあり、学者によって今も意見が分かれているが、いずれにせよ朝8時半頃に合戦の火蓋が切られたというのは共通の認識なので、半日で落城…という表現はどれも間違いではない。
ただ半日で落城したという言葉だけで捉えると豊臣方の圧勝のようにも聞こえるが、実はその陰で豊臣方はかなり多くの兵を失い、一説には北条方の総勢を上回る5000もの兵を失ったとされている。
山中城の落城は、ひとえに城の規模に対してあまりにも守備側の兵数が少なく、城全体を守るには手薄で隙だらけだったということが、圧倒的な豊臣方の戦力を前に籠城戦をさせてもらえなかった理由だろうが、せめて1万の兵がいればまた違った展開となっていて、上田合戦とまではいかなくとも、山中城の名が400年余りも忘却の彼方へと消え去ることは無かったように思える。
タラレバ話をしてもしょうがないが、こと歴史においてはそこにロマンがあるわけで、現に関ケ原の合戦の裏切りをはじめそんなタラレバを題材にしたシミュレーションによる研究も盛んに行われている。タラレバの世界での山中城の評価はいかがなものなのだろう…。そして合戦の結末はいかに?
渡辺勘兵衛とは何者ぞ!?
それはさておき、そんな山中城合戦の様子を書き残していた人物がいた。非常に珍しいことながら、袋崎出丸の攻防から本丸へと一番乗りし天守台に馬印を立て一番槍の手柄をあげた、豊臣方の中村一氏隊に加わっていた 渡辺勘兵衛 こと 渡辺了 だ。先程来、城の説明の中でもちょこちょこ登場していた人物だ。
当時まだ三十路前だったという勘兵衛は、江戸時代になってから 水庵(睡庵)と号し、『渡辺水庵覚書』に事細かに山中城での戦の様子や縄張りについて記している。
ちなみに勘兵衛は通称で、"槍の勘兵衛"と言われた槍の名手だったのだが、関ケ原の合戦で後藤又兵衛と一騎打ちをしたと言われる石田三成に仕えた渡辺勘兵衛とは別人だ。
渡辺了の方の勘兵衛は、後に増田長盛や藤堂高虎に仕え、大坂冬の陣・夏の陣でもその名が登場する人物なのだが、頑固で自分本位な振舞いが目立ったようで、部下としては扱いにくい部類の人物だったようだ。
1640年に79歳で往生するまで武技一筋に生きた人生で、数々の戦功も挙げているのだが、皮肉にも現代において一番の功績となっているのは、この『渡辺水庵覚書』を残したことだ。
勘兵衛の墓所は、京都の町のど真ん中となる新京極通り沿いの 誓願寺 にあるのだが、槍の勘兵衛は今何を思い眠っているのだろうか…。
勘兵衛よ、ありがとう!
そんな勘兵衛が残した『渡辺水庵覚書』は非常に貴重なもので、何が凄いのかというと、山中城合戦の様子が一兵卒の目線で、まるで 現場から生中継 しているが如く事細かに記されていることだ。
塹壕に身を潜めながら何処が手薄でどこから進入したとか、そこにいた敵は足軽なのか鎧武者なのかとか、どこで何名死んだとか、三ノ丸から二ノ丸へは欄干橋を渡って進んだとか、本丸がわからず鉄砲が撃たれる場所より推察したとか、矢切塀に上り西側を覗き込んで中の様子を窺った…など、とにかくリアリティーのある記述が並んでいる。
特に 方位 や 距離 の記述が多いことは特筆に値し、山中城の解明に大いに役立っただけでなく、当時の戦の仕方やその様子などもよくわかることから、歴史学者でなくともよくぞ残してくれた…と、勘兵衛に感謝したい気持ちになる。" 勘兵衛よ、ありがとう!"
ちなみに歴史学者の磯田道史さんが司会を務めるNHKの『英雄たちの選択』でも、2018年1月18日放送の秀吉VS"山城"スペシャル 第1夜「激突!小田原の陣」にて、『渡辺水庵覚書』が採り上げられ勘兵衛が登場している。また山中城は、2021年3月31日放送の「山城スペシャル 徹底解析!戦国武将の知恵の結晶」でも紹介されている。
山中城は陥落、山中城まつりも忘却の彼方に!
そんな山中城合戦における攻防戦や人間模様を再現した 合戦絵巻『山中城悲話』が、かつて「山中城まつり」の中で演じられていた。
自分は2回ほど観に行ったが、あの真田親子が徳川軍を迎え撃つ「上田真田まつり」のストリートでの決戦劇にも似たものを感じていただけに、祭りが無くなった時には落胆した。
迫真の演技、迫力のあるパフォーマンス…というわけではなかったが、山中城という城を知るうえで山中城合戦は切っても切れない史実であり、山中城の歴史を知らない人や、何のために造られたのか? ここで何があったのか? など、子供や初心者が山中城に興味を持つキッカケにもなりうるお祭りだっただけに、今でも残念に思っている。
発掘調査を経て 1982年 に「第1回山中城まつり」が開催されてから、東日本大震災が発生した2011年を除き 2012年 まで毎年開催されていたが、第30回 を最後に祭りは中止となり、合戦絵巻『山中城悲話』も見られなくなった。
山中城を舞台に、死守する北条方と攻め入る豊臣方の激しい攻防戦や、間宮親子の惜別シーンなどの人間模様を再現した史実に基づくまじめでストーリー性のある再現劇を楽しみに、多い時には2万人もの見物客が訪れていたという「山中城まつり」。
あの頃に比べたら格段に城の知名度も上がり、また山中城跡へ足を運ぶ人も増えているだけに、いつか復活して欲しい…と切に願う。
山中城で散った武将が、敵味方なく眠る宗閑寺!
山中城合戦においては、この地で多くの兵が命を落とした。そんな兵たちが弔われているのが、かつての激戦地である三ノ丸跡にある 東月山 普光院 宗閑寺 だ。
静岡市にある華陽院(けよういん)の末寺となるこのお寺は、1620年(1605年説もある)に、間宮康俊の娘で家康の四女 松姫の母親でもある お久の方 が、後に増上寺14世となる 桑誉了的(そうよ りょうてき)を招き開山した浄土宗寺院で、勝者敗者関係なく双方の菩提を弔うべく建立されたお寺となっている。
そのことを示すのが上の写真で、左手の三基並ぶ五輪塔が、北条方の 間宮康俊 一族の墓で、その右隣に山中城主だった 松田康長 の墓碑が、さらに少し間を開け右側に、豊臣方で秀吉子飼いの武将だった 一柳直末 の墓碑が仲良く並び建つ。他にも箕輪城主だった御由緒家の多米出羽守こと 多米長定/多目長定(ためながさだ)などの墓もある。
一柳直末を討ち取ったのは他ならぬ間宮康俊であり、討ち死にを知った秀吉は3日間口をきかなかった…とも言われているが、合戦であいまみえた武将が並んで眠る…という、ここに一つのドラマがある。
そしてこのドラマには更に続きがあり、100年そしてまた100年と時が流れ、廃城となった山中城のこともかつてここで壮絶な戦いが行われたことも忘れ去られ、江戸末期にはすっかり荒廃していた間宮康俊の娘が開いたお寺を、明治時代になって、今度は一柳直末の子孫が再興し今に至っているという。
何とも心温まるストーリーであり、間宮康俊と一柳直末はあの世でどんな会話をしているのか…と、ふと考えたりもする。
宗閑寺の境内を見渡し墓前に手を合わせる時、それは山中城の堀や曲輪を巡る時とは明らかに違う感情が芽生える。これが芭蕉が奥の細道で詠んだ "兵どもが夢の跡" に通じる儚さなのか…と思う中、この間宮康俊・松田康長・一柳直末が敵味方なく並ぶ武将たちの墓石と、それに纏わる物語が一条の光となる。
そんな 人間ドラマが交錯する山中城跡 を、是非一度訪れてみてほしい。天守も石垣も無い土の城の魅力が、そして障子堀や畝堀だけでないもう一つの山中城の魅力が、きっとあなたにも感じられると思う。そして帰る際には、そっと山中城で散った武将たちの墓に手を合わせてあげてほしい。
最後にもう一つ!
山中城は、2011年より7年に及ぶ再整備が行われたものの、その後2019年と2021年に台風や豪雨により被災し、毎年1000万円以上をかけ復旧作業や植栽などの維持管理が行われている。
そのため2018年からは、自治体が抱える問題解決のために使い道を明確にし ふるさと納税 を利用して寄附金を募る「GCF:ガバメントクラウドファンディング」によりその費用の一部を補っている。
日本100名城 にして 国の史跡 であり、後北条氏が手がけた 土の城の最高傑作! とも言える山中城を広く後世に伝えるべく、静岡県民として皆さんのご協力を仰ぎたい!
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堀だけで『日本100名城』になったと言っても過言ではなく、堀だけで訪れるものを圧倒し魅了する"土の城の最高傑作!"とも言われる山城を隅々まで歩いてみよう! 袋崎出丸や箱根旧街道の石畳へも足を伸ばしてね!
宗閑寺に眠る武将の墓前で手を合わせよう!
人間ドラマを生んだ、山中城合戦で散った北条方・豊臣方の両軍兵士が眠る宗閑寺を訪れよう!
敵味方なく死闘を繰り広げた間宮康俊・松田康長・一柳直末のお墓が仲良く並んでいるよ!
山中城跡の見どころ
山中城跡のおすすめ時期
1月 | 2月 | 3月 | 4月桜・ツツジ | 5月ツツジ・アヤメ・藤 | 6月紫陽花・睡蓮 | 7月紫陽花・睡蓮 | 8月睡蓮 | 9月 | 10月 | 11月紅葉 | 12月 |
山中城跡の基本情報
名称 | 山中城跡 |
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読み方 | やまなかじょうあと / やまなかじょうせき |
英訳 | Yamanaka Fort Ruins / Yamanaka Castle |
郵便番号 | 〒411-0011 |
所在地 | 三島市 山中新田410-4 |
駐車場 | あり |
お問合せ | 055-985-2970(山中城跡案内所) |
するナビ | 三島市の観光スポット |
アクセス | ①JR東海道線「三島駅」 ⇒東海バス「山中城跡」下車 ②伊豆箱根鉄道「三島駅」 ⇒東海バス「山中城跡」下車 |